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今津の歴史

今津最古の住民は1万年前の縄文人(大原D遺跡)

大原D遺跡
西部埋立地の建設工事の前、1995~1999年にかけて文化財の発掘、調査がおこなわれました。注目されたのは、火事で消失した竪穴住居の跡です。
大きさは4.3×3.5m以上の円形で、炭化材の年代測定から、今から1万年前のもので、周辺から底の尖った尖底工器や石鏃(せきぞく:石のヤジリ)など多数が出土して、シカやイノシシなどの狩猟を主とした生活を営んでいたことがわかりました。今津に定住した最古の住人ということができるでしょう。中田埋立地の管理棟に、大原D遺跡の説明があり、縄文工器や石斧を含んだ土層が展示され見学できます。
その他、今津には長浜貝塚、今津貝塚、小葎遺跡など縄文~弥生時代の遺跡があります。


弥生時代のこもぐら(小葎)遺跡


1976年(昭和51年)、シーサイド病院の杭打ち工事中に発見された遺跡で、緊急調査が行われました。その結果、直径10.8mという大型の円形竪穴住居跡が発見されています。弥生時代の竪穴住居は直径5~6m程の大きさですから、並はずれて大きいことがわかります。そこから、夥(おびただ)しい量の弥生土器とともに漁網用の石錘(セキスイ:石のおもり)が出土しています。大型の竪穴住居は網の修理をしたり、石のおもりを作ったりした共同作業所のような役割だったと思われます。 弥生時代が最も栄えた中期後半の時期の遺跡で、二重口緑の壷型土器にシカを描いたものは、出土例の少ないものです。


栄 西

栄西
今津は博多津に対して、新しく開かれた怡土荘の貿易港と考えられています。
 栄西は今津港を臨む誓願寺の開山から十数年滞在し、宋船のもたらす経典の入手に努めました。縁起は、治承2年(1178年)の盆の供養を書き留めた栄西直筆のもので、国宝に指定されています。(現在は九州国立博物館に寄託しています)
 
■ゆかりの神社仏閣
 誓願寺
 八大竜王神社


元 寇

蒙古襲来
蒙古襲来とも呼ばれますが、「元寇防塁」とセットで「元寇」と呼ばれることの方が多いようです。
 
 時代は鎌倉時代。 文永の役(1274年)、弘安の役(1281年)の二度に渡って蒙古が攻めてきました。文永の役で手痛い目にあい、次の襲来に備えて築造されたのが20kmにわたる石築地(元寇防塁)でした。


防 塁

元寇防塁元寇防塁
  指定  : 国指定
  国分  : 記念物
  種別  : 史蹟
  時代  : 鎌倉
 
文永11年(l274)蒙古(元)の襲来を受けた鎌倉幕府は、建治2年(1276)に博多湾の海岸線に石築地(いしついじ)を築いて再度の来襲に備えることにしました。これを元寇防塁(げんこうぼうるい)と呼んでいます。
防塁発掘1.jpg
 今津地区の元寇防塁は、西の柑子岳山麓から東の毘沙門山山麓までの海岸砂丘上に、約3kmにわたってつづいています。大正2年にこのうちの2ヶ所が、昭和43年に本格的な発掘調査が行われました。
 防塁は、砂丘の海に向かった傾斜面に、高さ3m、上の幅2m、下の幅3mの台形状に石を積み、内部の隙間には砂を入れた構造でした。構築に際して粘土は一切使用されていません。
 現在、松原の中に約200mが復元整備され見学ができます。
 また今津には千人塚、万人塚と呼ばれる二つの蒙古塚もありますが、大正時代に行われた発掘調査の結果では、元寇に関係した遺跡であることを示す資料は得られなかったようです。


柑子岳城跡


時代  : 室町
 
博多湾を望む標高254mの柑子岳に築かれた戦国時代の山城です。築城時期は明らかではありませんが、天文7年大友氏が志摩郡一帯を領地にし、以後、柑子岳城は志摩郡における大友氏の拠点となりました。
 その後、幾多の戦いの後、大友氏方は立花山城(福岡市東区)に退き、柑子岳城は廃されたものとみられます。
 城跡は、柑子岳山頂から南北に伸びる尾根上を利用した3つの曲輪群からなり、筑前西部地域では稀な畝状竪堀群がみられます。


筑前五ヶ浦廻船


江戸時代の博多湾の浦
 福岡藩では、漁業や海運業など、海を舞台にして生活を営む沿岸の村々を浦とよび、浦奉行を置いて支配しました。その数は約40で、はじめ筑前国の玄界灘沿岸の上触と下触のふたつのグループに分けられ、後に三触(上浦、中浦、下浦)となり博多湾沿岸(現在の福岡市域)の浦々は中浦と下浦に属しました。
筑前五ヶ浦廻船
 筑前五ヶ浦廻船とは博多湾内の西側にある、唐泊(からどまり)、宮浦(みやのうら)、今津(いまづ) 、浜崎(はまさき)、残島(のこのしま)(能古)の5つの浦で栄えていた廻船業のことで、福岡藩の年貢米を瀬戸内海を経て大坂、江戸などに運ぶほか、日本各地の産物を積んで、日本海や太平洋岸の長距離の輸送に活躍しました。藩により5つの浦の廻船を統括する廻船頭取もおかれ、最も栄えていた江戸時代の中頃には、50隻もの廻船があったと言われています。


今津の干拓


1. 璞(あらたま) 新開碑 (NTT鉄塔下)
璞新開碑
高さ1.8mの玄武岩の石碑で、平面に安政6年(1859)正月に創功、11月20日潮留、堤防長六百間余と記されています。潮留の前の日19日には怡土・志摩三触の人夫五千人余が動員され、夜通し篝火(かがりび)をたきつづけ、明け方になってようやく潮留ができたそうです。潮留場は新開土堤の中程、特別支援学校の前あたりでした。文久3年(1863)の「筑前名所図会」の誓願寺図を見ると、瑞梅寺川が今津小学校付近まで湾入しており、璞(あらたま)の新開の潮留によって今津の干拓が始まることになります。
 
 
2. 明治3年の供養塔 (勝福寺納骨堂横)

安政6年の潮留後、今津堂崎近辺から砂を埋め立てる工事が始まったようですが、本格的な工事は幕末から明治にかけてのことです。 福岡藩は明治初年から「今津璞の整地作業に応募すれば、一人につき米一升を支給する」という達しを出し、糸島、早良をはじめ筑紫、粕屋、宗像だけでなく、朝倉辺りからも募集して人員は千人を超える程となりました。 その時農作物が不作で農民の生活は緊迫していましたが、お達しのように米は支給されず、明治2年9月頃になると疫病が流行し始め、死者が続出するようになりました。 明治3年8月までの死者は四百人になったとむいわれています。 供養塔は、明治3年11月28日の日付で、関係者が記されています。